渡辺私塾からのメッセージ
渡辺私塾からのメッセージ
~渡辺私塾開塾の思い出、父の追憶と、輝かしい発展を期して長男に託した想い~
渡辺私塾会長 渡辺淑寛
(真岡新聞平成21年6月26日号掲載文・平成29年2月3日改訂)
父、渡辺寛一は、物部中、久下田中、真岡中等で教鞭を執った後、昭和54年、芳賀町立水沼小学校校長として定年退職し、平成2年に他界した。現職中脳血栓で何度か倒れ休職を繰り返しながらも、多くの教職員、ご父兄、生徒達の温かい励まし、ご支援で、定年まで勤めあげた。定年の数年前には、口、手足が不自由になり、我々家族も見かねて、早期退職を勧めたが、頑として聞かなかった。ある時、次のような話を耳にして、家族は早期退職を口にしなくなった。朝礼時、父の挨拶は、呂律が回らず、何を言っているのかはほとんど解らないのだが、その必死さ、生き様、児童達を思う純真な姿に打たれ、泪する教職員、子供達が少なからずいたという話であった。目頭を押さえながらも、私達家族は父を誇りに思った。
父が最初に倒れたのは、私が宇都宮大卒後、名古屋大4年の春であった。8年間も大学に通うことを許してくれた父母に、私は計り知れない恩義を強く秘めていた。宇大では有機化学を、名大では美学美術史を学び、絵画の塗料分析の出来る美学生など稀だったので、私のような粗野な人間でも少しは嘱望され、大学に残る予定であったが、父のリハビリの事も有り、私はためらわず地元での開塾を決心した。それに、大学で父のような教師になることが夢であったが、松下村塾やシーボルトの鳴滝塾のように、全く自由な教育の出来る私塾も悪くはないとその当時から考えていた。実体は学習塾だが、理念は哲学塾であるという自負から、「渡辺進学塾」でなく、「渡辺私塾」と命名したのもその思いか らであった。そして、授業の合間に行われていた、高等部数学クラスの「特殊相対性理論」講義、「言語と芸術」講義や、多くの哲学、文学の話の中で、その思いは脈々と息づいている。
今にして思えば、当塾第1回卒業生である弟も、現在荒町教室塾長として教育にたずさわり、サラリーマンであった兄も、会社の研究室で研鑽し、急逝する直前まで1年余、岩手大学名誉教授として教鞭を執っていた。
更に、私から経営権を譲り受けた渡辺私塾代表取締役の長男の夢寛においては、全てを任せている台町本校中等部にて、4年連続真岡高にトップ合格者を輩出し続け、真岡駅前校校長として全権を任せ、数人の生徒数から開校した駅前校を空席待ちが相次ぐ校舎へと発展させた。新館を増築してもまだ尚満席になるほどの生徒数の激増と、他のチェーン個別塾とは決定的に違う、当塾卒業生の中から選りすぐりの講師:生徒、完全1:1の手厚い授業による、大きな成績向上という実績を着実に積み上げている。やはり真岡駅前校校長も兼任している長男夢寛には、父寛一が遠い昔、狭い小学校の教室で、すし詰めにされながらも全児童に万遍なく声をか けたように、私には少し足りなかったかもしれない、「全ての生徒一人一人と真摯に向き合う能力」がある。
ちなみに父寛一は、六人の孫の中で唯一の男子である幼き夢寛を、小学校校長室に暇さえ有れば連れて行き、児童に溢れんばかりの愛情を注ぐ姿を日々見せていた。
台町本校高等部英語クラスも、海外留学経験豊富で、尚日々英語の鍛錬を重ねている彼ならば、全ての塾生に向き合い、見事に高等部生の学力を大きく向上させてくれることであろうことを確信している。(※後日談。嬉しさ半分悔しさ半分であるが、私が全ての塾業務から引退し、高等部の進路指導も含め全て長男に委ねた、平成29年度に入塾し令和2年度に卒業したこの世代は、大学入試において東北大医学部医学科や京大理学部をはじめ旧帝大8名、早慶理工7名という当塾過去十数年において最高の合格実績を挙げた。)更に当塾四十年を超えるのノウハウと、当塾二万人以上の卒業生達の中でも選び抜かれた優秀な講師陣を束ね開校した清原校の発展と、清原地区の未来を担う少年少女の学力向上に寄与している。
さて、3人の息子全員、更には孫さえもが、足を引きずりながら父の歩んだ同じ道を、無意識に選び、邁進し続ける開塾四十四年目に入った渡辺私塾。「自由な教育」の結果として、芳賀郡の進学実績の向上も使命の一つであったが、高等部卒業生だけでも約4000名を数え、そのうち3000名近くが国公立大に進学し、中等部を合わせれば、卒業生2万人を優に越えている。使命の何割かは果たしていると、父も優しい笑みで認めてくれるであろう。
また地元の文化芸術の発展の一助になることも、当塾の目標の一つであるが、文芸賞創設、芳賀教育美術展の全ての副賞を授与、絵画展開催、いちごてれび高校講座中学講座放送、文芸誌発行、本の出版(計10冊)、渡辺私塾文庫創設、NHK美術番組出演を初め各種講演会、渡辺私塾美術館開館などではまだまだ不十分であることは、重々承知しているので、密かな計画も持ち合わせている。
父よ、病魔に冒された後のあなたの悲嘆、苦渋、刻苦は、私達の想像のはるか向こうにあるが、父よ、朝目覚めるたびのあなたの絶望と、その病躯で職を全うした真の勇気からすれば、今の私の努力など取るに足らないと、真顔で諭すように言うだろう。
それでも本当の事を言ってもいいよね、父よ、願わくば、あの世では、日本代表陸上選手として褐色の肌でトラックを走り、イージーライダーの様に単車を走らせた、あの元気で若くて頑強な「お父ちゃん」に、会いたい。
(真岡新聞平成21年6月26日号掲載文・平成29年2月3日改訂)